これまで複数のグローバル企業でクラウド、データ、セキュリティ領域を牽引し、現在はコンパスグループ・ジャパン株式会社でAI活用と組織変革を推進されているIgor Danshyn氏。
社内AIチャットボットの開発やAI栄養士の構想など、先進的な取り組みを次々と推進する一方で、Igor氏が一貫して大切にしているのは「人」の力です。AI時代だからこそ求められるコミュニケーション、リーダーシップ、そして組織文化の重要性とは何か──。「技術だけでは、人は動かない」と語るIgor氏に、ウクライナから日本へ渡ったキャリアの軌跡、サーバントリーダーシップの実践、そして人とAIが共創する未来について伺いました。
ウクライナから日本へ──人生を変えた「異文化」との出会い
まずはキャリアの原点について教えてください。
私のキャリアは、大学時代に父と同じ会社で働いたことから始まりました。父はITマネジャーで、私は学生の頃からネットワークやセキュリティ、PC管理などを実践的に学んでいました。
ウクライナでは、大学で学びながら働くことは珍しくありません。知識だけでなく、実際の現場で経験を積むことが重視されているからです。私自身も大学で情報システムやプログラミングを学びながら、ITエンジニアとして経験を積んでいきました。
その後、どのようなキャリアを歩まれたのでしょうか。
ビジネスやITの基礎を学んだ後、独立して欧州ビジネス協会(European Business Association)へ転職しました。
そこでITマネジメントを担当する一方、MicrosoftやIBM、HPなどのグローバル企業とも接点を持つようになりました。当時はDXという言葉が一般的ではありませんでしたが、先進的なテクノロジーについて議論する機会が多く、技術だけでなくビジネス視点も学ぶことができました。
今振り返ると、この経験が現在のキャリアの土台になっています。
日本との最初の接点はHondaだったそうですね。
はい。Hondaがウクライナに現地法人を設立するタイミングで、ITマネジャーとして入社しました。そこで初めて日本人と一緒に働くことになったのですが、最初は文化の違いに驚きました。
特に印象的だったのは意思決定のプロセスです。ヨーロッパでは権限を持つ人が集まり、その場で決めてすぐに実行へ移ることが多い。一方で日本企業は関係者との合意形成を重視します。当初は「なぜこんなに時間がかかるのだろう」と感じていました。
その違いはどのように受け止められたのでしょうか。
最初は戸惑いましたが、徐々に考え方が変わりました。日本のやり方は時間がかかることもありますが、その分、多くの人が納得した状態で前に進むことができます。どちらが正しいという話ではなく、それぞれの文化に根付いた価値観なのだと思います。
また、日本人の優しさや礼儀正しさにも強い印象を受けました。文化の違いはありましたが、一緒に働くこと自体は非常に心地よい経験でした。
そして、その後日本へ移住されることになります。
実は妻が大学で日本語を専攻していて、日本への留学経験もありました。二人とも海外で暮らしてみたいという思いがあり、将来について話し合う中で日本という選択肢が浮上したのです。
私はもともとヨーロッパへの移住も考えていましたが、妻の留学プログラムが決まり、日本で新しい人生をスタートすることになりました。
日本へ来ることに不安はありませんでしたか。
もちろんありました。ただ、その時は「英語ができれば何とかなるだろう」と考えていたのです(笑)。
実際に来日してみると、それは大きな勘違いでした。日本で働き、生活するためには日本語が必要です。そこで日本語学校に通い、朝から夜まで勉強する日々が始まりました。
英語、ウクライナ語、ロシア語に加えて新しい言語を学ぶのは簡単ではありませんでしたが、その経験が後のキャリアにつながっていきます。

スペシャリストからマネジメントとして挑む組織運営
さまざまなグローバル企業を経験された中で、2023年にコンパスグループ・ジャパンへ入社されています。入社を決めた理由を教えてください。
前職のJERAでは約5年間、さまざまな技術チームや事業部門と連携しながら経験を積み、「次は自分自身が全体を統括し、IT戦略をリードしたい」という思いが強くなっていました。そこで出会ったのが、コンパスグループ・ジャパンでした。
コンパスグループ・ジャパンは、イギリスに本拠を置く世界最大級のコントラクトフードサービス企業の日本法人です。オフィスや工場、学校、病院、高齢者施設などでサービスを展開しており、「食」を通じて人々の日常を支える社会インフラのような役割を担っています。
「食」というキーワードにご興味をお持ちだった?
いえ、実は、もともと私は「食」の業界に強い興味があったわけではありません(笑)。しかし、話を聞くうちに、この会社は単に食事を提供する会社ではなく、ITやデータを活用してサービス品質や業務効率を高め、人々の生活をより良くしていくことに本気で取り組んでいる企業だと感じました。その点は、前職で培ってきた経験をそのまま活かせる環境でもありました。
現在は情報システム部のGMとして、ITだけでなくデータ活用やDXも統括しています。高品質なデータがあってこそ正しい経営判断やサービス改善が実現できるため、テクノロジーとデータの両輪で会社の成長を支えることが、私の重要なミッションだと考えています。
現在のコンパスグループ・ジャパンでは、どのような役割を担われていますか。
私は組織運営を大きく4つの柱で考えています。
まず一つ目は、ITオペレーションです。
社員が安心して業務を行えるよう、安定したインフラやセキュリティ環境を整備し、ユーザーサポートの品質向上にも取り組んでいます。
二つ目は、データとインサイトです。
昨年からデータ組織も担当することになりました。ビジネスの意思決定を正しく行うためには、質の高いデータと分析基盤が不可欠です。データ品質の向上と、経営判断につながるインサイト創出に力を入れています。
三つ目は、AIとDXです。
生成AIの登場によって、企業の働き方は大きく変わろうとしています。そこで私たちはAIとDXを専門に推進するチームを新たに立ち上げました。
日々の運用業務に追われるだけではイノベーションは生まれません。専任チームを設けることで、新しい価値創造に集中できる環境を整えています。
そして四つ目が、ITビジネスパートナーシップです。
ITビジネスパートナーシップとは、どのような考え方でしょうか。
従来、IT部門はサポート機能として見られることが多かったと思います。しかし私は、ITはビジネス成長を支えるだけでなく、成長を加速させる存在であるべきだと考えています。
現在、コンパスグループ・ジャパンは大きな成長フェーズにあります。その中でIT部門が事業部門と対等な立場で議論し、新しい技術やデータ活用を通じて事業成長に貢献することが求められています。
私はよく、「IT部門とビジネス部門の間に橋を架ける」という表現を使います。
IT技術の活用方法をビジネス部門のリーダー達に説明し、ビジネス課題をITで解決することが理想だと思っています。
ITを『守り』から『攻め』へ変えていくイメージですね。
まさにその通りです。ITはビジネスの未来を創るための重要なパートナーであり、成長戦略の中心に位置づく存在だと考えています。

AIは人を置き換えるのではなく、人を支援するためにある
コンパスグループ・ジャパンではAI活用にも積極的に取り組まれています。具体的にはどのようなプロジェクトを推進されているのでしょうか。
現在、私たちが特に力を入れているのは二つのプロジェクトです。
一つ目は、社内向けAIチャットボットです。
生成AIの技術が急速に進化する中で、「社内の知識を誰もが簡単に活用できる環境を作れないか」と考えました。そこで、社内のルールやガイドライン、業務プロセスなどを一箇所に集約し、AIチャットボットを構築しました。
ヘルプデスクとは違う位置づけなのでしょうか。
はい。パソコンの故障やシステム障害を対応するヘルプデスクとは異なります。
例えば、具体的な質問に対して、AIが人間の担当者のように回答します。これまでは新入社員や異動した社員が分からないことがあるたびに、各部門の代表者へ問い合わせをしていました。実際に調査を行ったところ、部門によっては月に500件近い問い合わせメールを受け取っていたのです。
かなり大きな業務負荷ですね。
そうです。もちろん社員は親切に対応していましたが、本来の業務に集中する時間が減ってしまいます。そこでAIチャットボットに社内知識を学習させることで、社員が必要な情報を24時間いつでも取得できる環境を整えました。AIが単純な問い合わせを代替することで、人はより価値の高い業務に集中できるようになります。
AIは導入よりも定着が難しい──社内チャットボット「Conavi AI(コンナビAI)」誕生の舞台裏
社内チャットボットの導入は、どのように進められたのでしょうか。
最初に行ったのは、「なぜチャットボットを作るのか」という目的の共有でした。新しい技術を導入するときは、ツールそのものではなく、将来どのような価値を生み出したいのかを全員で理解することが重要です。そこで各部門の責任者と議論を重ね、社内の知識を誰もが簡単に活用できる環境を作ろうという方向性を共有しました。全員がそのビジョンに共感したことで、プロジェクトがスタートしました。
技術的にはどのような苦労があったのでしょうか。
一番苦労したのは学習データの整備です。
AIは学習データの品質に大きく依存します。各部門から業務マニュアルやガイドライン、FAQなどを集めたのですが、提出形式がバラバラでした。ある部署はPDF、別の部署はExcel、PowerPoint、画像ファイルなど、それぞれ異なる形で情報を管理していました。そのため、まずはそれらの情報を整理し、AIが理解しやすい形へ変換する必要がありました。
私はよく「Good Data In, Good Data Out」と言いますが、学習データの質が低ければ、AIの回答品質も下がります。逆に、データをしっかり整備すれば、AIは非常に高い精度で回答できるようになります。
このデータ整備こそが、プロジェクト最大の山場でした。
リリース後の反応はいかがでしたか。
予想以上に良かったです。リリース当初から月間約1,500件の問い合わせがありました。特に好評だったのは、「人に聞いているような感覚で質問できる」という点です。
例えば、
「来月から新しい部署に異動します。事前に必要な申請や準備事項を教えてください」
「新しく入社したメンバーを受け入れることになりました。初日までに準備すべきことと、必要な手続きを教えてください」
「出張先で急きょ予定が変更になりました。宿泊先の変更や交通費の精算について、どのような手続きが必要ですか」
といった質問に対し、AIが自然な対話形式で回答します。
社員からは、「本当に社内の相談員のようだ」という声もありました。
導入に対する抵抗感はありませんでしたか。
それほど大きくはありませんでした。そもそも私たちは、機能よりも使いやすさを重視しました。どれだけ優れた技術でも、使われなければ意味がありません。誰でも迷わず使えるシンプルなインターフェースを意識し、利用者の視点で設計を進めました。
その結果、自然な形で組織に浸透していったと思います。
成果はいかがでしょうか。
現在、約90%の問い合わせはチャットボットだけで対応できています。もちろん、残り10%ほどはイレギュラーなケースです。その部分については人間が対応する仕組みにしています。
私はAIを万能な存在だとは考えていません。
だからこそ、人間とAIが協力する「Human-in-the-Loop」の考え方を大切にしています。AIが定型的な問い合わせを担当し、人間はより複雑で判断が必要なケースに集中する。この役割分担ができたことで、業務効率だけでなく、社員体験そのものも向上したと感じています。
この取り組みは日本独自のプロジェクトだったそうですね。
はい。本国主導ではなく、日本チームが主体となって企画・開発を進めました。コンパスグループはグローバル企業ですが、現場で起きている課題は国によって異なります。だからこそ、現場の声を聞きながら、日本の社員にとって本当に使いやすい仕組みを作ることを重視しました。
AI導入で最も重要なのは、技術ではなく「使いやすさ」と「利用者の体験」だと思っています。

「AI栄養士」が変える食の未来──生産性向上の先にある顧客価値
もう一つのプロジェクトである「AI栄養士」について教えてください。
これは現在、パイロット段階で進めているプロジェクトです。きっかけは、約2年前にコンパスグループ・ジャパンで新しい献立管理システムを導入したことでした。
各事業所の栄養士は日々多くの献立作成業務を抱えています。場合によっては、お客様ごとに異なる献立を作成する必要もあります。
そこで私たちは、「AIを活用して栄養士を支援できないか」と考えました。
具体的にはどのような仕組みなのでしょうか。
これまで蓄積してきたレシピや献立データをAIに学習させ、新しい献立案を提案できる仕組みです。もちろん最終判断は栄養士が行います。しかし、ゼロから献立を考えるのではなく、AIがたたき台を作ることで、業務負荷を大きく軽減できます。私たちは「栄養士のパートナー」と考えています。
AI活用というと、生産性向上のイメージが強いですが、それだけではないのでしょうか。
はい。もちろん生産性向上は重要です。ただ私は、生産性向上と事業成長はつながっていると考えています。例えば、繰り返し作業をAIが支援することで、栄養士はより創造的な業務に時間を使えるようになります。
お客様とのコミュニケーションを増やしたり、新しいメニューを考案したり、サービス改善に取り組んだりすることができます。
つまり、AIによって生まれた時間を新しい価値創造に使えるようになるのです。
それは単なる効率化ではなく、事業成長にもつながるということですね。
その通りです。人が面倒な作業から解放されることで、より価値の高い仕事に集中できるようになる。その結果として、会社も成長していくのだと思います。
最終的に目指しているのは、人とAIが協力しながら、これまで以上に豊かな食体験を提供することです。
「部下を管理する」のではなく、「成功を支援する」──Igor氏が実践するサーバントリーダーシップ
組織を率いる中で、どのようなリーダーシップを意識されていますか。
最も大切にしているのは、サーバントリーダーシップです。サーバントリーダーシップは、リーダーの役割は指示を出すことではなく、メンバーが成功できるよう支援することにあります。
私は約20名のメンバーをマネジメントしていますが、常に「どうすれば彼らがより良い仕事ができるか」を考えています。そのために、定期的な1on1や日常的なフィードバックを通じて、できるだけオープンなコミュニケーションを心がけています。
なぜサーバントリーダーシップを重視されているのでしょうか。
最終的に会社を強くするのは、お客様と従業員の満足度だと考えているからです。従業員が働きやすく、お客様がサービスに満足していれば、自然と組織文化は良くなります。そして良い文化は、結果として事業成長や利益にもつながります。
私は会社の価値を決めるのは制度やシステムだけではなく、文化だと思っています。
1on1ではどのような話をされるのでしょうか。
仕事の進捗確認だけではありません。健康や家族のことについても話します。なぜなら、健康や家庭に問題を抱えている状態では、良い仕事を続けることは難しいからです。仕事の話では、課題が大きくなる前に小さなサインを見つけることを意識しています。
特に日本人は真面目で責任感が強い反面、「困っています」と言うことが苦手な方も少なくありません。そのため、私から積極的に声をかけ、問題が小さいうちに一緒に解決するようにしています。
チームのエンゲージメント向上にもユニークな取り組みをされているそうですね。
はい。毎年、「今年の漢字」を選ぶ取り組みを行っています。複数の人が同じ漢字を選んだ場合、その漢字はIT部門の「今年の漢字」となります。
一年を通じて自分がどのような経験をし、どのような印象を受けたのかを、一文字の漢字で表現してもらうのです。
実はこのアイデアは以前の経験をヒントに、日本らしい形へアレンジしたものです。社員一人ひとりが自分自身の実績や印象を言葉にすることで、モチベーションやエンゲージメント向上にもつながっています。
私自身、リーダーの役割は管理ではなく、人が成長できる環境を作ることだと思っています。そのための対話や文化づくりに、これからも力を入れていきたいですね。

会話型AIが変える働き方──「インテリジェント・エンタープライズ」の未来とは
AIが進化する時代に、人間に求められる能力は何だと思われますか。
フードサービスの世界では、人間の経験や感覚は欠かせません。
例えば栄養士や調理師の仕事です。AIはレシピを提案できますが、「本当においしいか」を判断することはできません。味覚や感性、お客様への気配りは、人間だからこそ持てる価値です。
だから私は、AIは人を支援するための存在だと考えています。
面倒な作業や繰り返し業務はAIに任せ、人間は創造性やコミュニケーション、顧客体験の向上に時間を使う。その結果として、生産性だけでなくウェルビーイングも高まっていくはずです。
AIと人間は競争する関係ではありません。
これからの時代は、AIを活用しながら人間らしい価値をさらに高めていくことが重要なのではないでしょうか。
AI時代だからこそ、人間の力が問われる
最後に、仕事において大切にされていることはありますか?
最近はAIスキルや生成AI活用について語られることが増え、もちろんそれらを理解し活用する力も重要視しています。
ただ、私がそれ以上に大切だと思っているのは、基本的なソフトスキルです。
特に重要なのは、コミュニケーション、リーダーシップ、そしてプロジェクトマネジメントの3つです。
AIは優れた提案をしてくれます。しかし、人と人をつなぎ、組織を動かし、最終的な意思決定に責任を持つことはできません。
だからこそ、人間には人間ならではの力が必要です。
相手の考えを理解し、自分の考えをわかりやすく伝えるコミュニケーション力。チームを導き、意思決定を行うリーダーシップ。そして複雑なプロジェクトを最後までやり遂げるマネジメント力。こうした基礎的なスキルは、AI時代になっても変わらず重要であり続けると思います。
こうした基礎的なスキルや人間力を土台として仕事に向き合うことを忘れないようにしています。


