創業から150年を超える歴史を誇る三菱マテリアル株式会社。そんな同社において、初めて外部から招聘されたCHRO(最高人事責任者)として人事改革を牽引してきたのが、野川真木子氏。今回は、野川氏が就任時に抱いた覚悟、経営陣との対話を通じて築いた信頼、そして人事戦略による変革の軌跡について伺いました。

外資系企業で活躍されていた野川さんが三菱マテリアルにCHROとして参画されたと伺い、大変興味深く感じました。なぜ今、日本企業での挑戦を選ばれたのでしょうか?
社会人のキャリアを日系の製造業の会社でスタートしたこともあり、外資系での経験を積み重ねながらも、心のどこかで「キャリアの最後は日本のものづくりに貢献したい」と思っていました。そんな折、現職である三菱マテリアルの方とお話する機会があり、経営陣との対話を重ねる中で、「外から人を連れてくれば変わる」といった単純な期待ではなく、「自分たちも本気で変わらなければならない」という強い覚悟を感じ、深く共感しました。会社が本気で変わろうとしている変革フェーズに貢献できる点に魅力を感じ、参画を決意しました。
当初のミッションについて教えてください。
2021年に入社した当時、すでにデジタルトランスフォーメーション(DX)に着手している中で、人材不足と変革スピードという課題に直面していました。また、世界を舞台にした事業経営や資源の囲い込み競争など、過去に経験していない別次元の外部環境の変化に直面する中で、財務体質の強化とともに、当社の良い面を活かしつつも、仕事の仕方や組織の質も変えていく必要がありました。その中で「人事が変わらなければ何も始まらない」という危機感がありました。
そのような状況下で始まった「4つの経営改革」とは何ですか?
2021年から「4つの経営改革」として以下の柱を立てました。
- CX (コーポレート・トランスフォーメーション)
- DX (デジタル・トランスフォーメーション)
- HRX (ヒューマン・リソース・トランスフォーメーション)
- 業務効率化
2020年から着手したDXを皮切りに、2021年には「CX(最適な経営形態(組織・経営管理))」「HRX(変化に適応する自律的な人材の確保・育成に向けた人事制度・働き方の改革)」「業務効率化」の4つの柱を掲げて、経営改革が本格化しました。その年に私は当社に入社し、人事を起点としたHRXを推進しました。社内外から多様な人材を登用し、ダイバーシティのある混成チームで全社改革を牽引しています。
CHROとしての役割を、どのように位置づけていますか?
人事のトップとしてだけでなく、経営チームの一員として、財務・研究開発・製造などあらゆる領域に対して「人材・組織」の視点で意見を述べ、経営の質を高めていくのが私の使命です。三菱マテリアルにおいて、CHROはまさに全社変革におけるキープレイヤーであると自覚しています。
たとえば、事業戦略や財務、研究開発、製造など、すべての領域に「人と組織」の課題は存在します。そこに対して人事の視点で介入する。これは“口出し”ではなく“意見”として、経営の質を高める役割を果たすことだと考えています。
何から着手されたのでしょうか?
まずは、人事の役割を再定義することから始めました。会社が目指す姿を実現させるためには、既存の組織のままではスピードも質も十分ではなく、外部からも人事人材を採用し、混成チームで推進する必要がありました。
また、外部のコンサルタントに「言われた通りにやる」のではなく、私たち自身が“主体者”となって外部の知見を活用する側に立つ。そういう意識転換をはかりながら、変革を進めてきました。
既存社員との融合や協働についてはどうお考えですか?
とても重要なテーマです。外部からの知見や経験は必要ですが、組織として変革を進めて現場に実装するには、事業と人をよく知る内部の人材が主役でなければ意味がありません。
既存社員が主体となり、外部の人材やパートナーを“活かす側”に回る。それが実現できる組織づくりを人事がリードすることが、私たちの大きな使命だと考えています。
人事制度改革の本質は「一人ひとりの力を信じること」
三菱マテリアルにおける人事制度改革の背景と狙いについて教えてください。
従来の制度は年功序列的で、一定期間ごとに昇格していく「職能資格」が基本でした。
しかし、現在は就労観も人生観も多様化しており、会社が社員に求めるスキルも多様化・高度化する中で、こうした変化に見合った制度へと改革を進めました。2022年4月には管理職層に職務をベースにした「職務型人事制度」を、2025年4月からは組合員層に役割をベースにした「役割等級制度」を導入し、年齢や勤続年数ではなく業務上の役割や貢献の大きさを軸とする制度に転換しました。従前にも増してパフォーマンスの発揮度、個人のキャリアに対する希望にも応える仕組みとしました。
制度改革と並行して、どのようなカルチャーを目指しているのでしょうか?
当社の社員は、一人ひとりが素晴らしいアイデアと情熱を持っています。ただ、それが集団になり組織の中では薄まってしまい、みんなが同じ色になってしまう。それが非常にもったいないと感じています。だからこそ、個人の生産的な意見が積極的に出せる環境と、それを実現するまで支援できる制度が必要だと考えています。
CHROとして、その実現にどう貢献されていますか?
ポテンシャルのある個人が力を発揮できるよう、社内公募制度の整備やカルチャー醸成など、あらゆる手段で選択肢を広げることが人事の使命です。制度を変えること自体が目的ではなく、「一人ひとりの力が開花する」ための手段です。その考えは今も変わらず、大切にしています。
「ダイバーシティは現場で磨かれる」——異文化環境で得た視座

野川さんのキャリアの中で、特にご自身をストレッチさせたご経験について教えてください。
GE(General Electric)在籍時に経験したパリでの海外勤務ですね。ヨーロッパは言語も文化も多様で、まさに人種のるつぼ。そのようなダイナミックな環境の中で、バーチャルな組織をHRビジネスパートナーとして支援するという経験は、自分の視野を一気に押し広げ、価値観を大きく揺さぶるものでした。単一文化・単一言語の日本で生まれ育った私にとって、このチームに人事としてどう貢献できるかを常に考え、試行錯誤しながらの毎日でした。
その環境ではどのような苦労がありましたか?
私は金融事業の東欧・中欧・中東地域のリージョナルチームのHRビジネスパートナーとして、欧州各国に在籍する社員の採用・育成・組織開発等を担当していました。勤務先のパリのオフィスには日本人は私一人で、完全にアウェーの環境でした。それぞれの社員や各国の人事と、常日頃からよくコミュニケーションをとることを心がけながら、「自分がどんな貢献ができる人間なのか」を理解してもらい、変化のスピードが激しい事業環境の中で人事的な相談にタイムリーに応えることを通じて、人事としての信頼を得る努力を積み重ねました。
異文化環境で仕事を円滑に進めるために意識されたことは?
とにかく「自分が相手の立場だったらどう感じるか」を常に意識しました。負担をかけないように事前情報を整えたり、丁寧に説明を尽くしたり。英語力以上に大切なのは、相手を理解しようとする姿勢と、自分を理解してもらおうとする努力。その両方を行動で示すことが信頼構築の鍵だと実感しました。
「正しさ」と「異文化」の狭間で揺れた日々
多国籍な職場でのコミュニケーションにおいて、特に印象深い経験はありますか?
とても象徴的だったのが、ある国の社員が個人的な事情で他国に住むと言い出したケースです。会社から正式に駐在を命じられたわけでもなく、本人の判断による居住地変更だったため、税務や社会保険の面で課題を抱える可能性がありました。状況を丁寧に説明したところ、会話の中で本人が激昂してしまったのです。
その時、どのように対応されたのでしょうか?
結果的には、その社員も話していく中で冷静になり、最終的にはお互いにとって納得のいく解決策を合意することができました。ただ、私にとっては「正しいことを言ったはずなのに、なぜこんな反発を受けるのか」と戸惑いも大きく、苦い経験になりました。当時は、今のようにTeamsやZoomでカメラONにしてPC上で顔を見ながら話す環境はなく、顔を見ずに声だけで「電話会議」で話す時代でした。今思えば、相手にとって当時の私は“突然電話をしてきた聞きなれない名前の人”であり、20年ほど前のビジネス環境で、複数の国と地域をまたいだバーチャルチームでは起こり得るコンフリクトだったと思います。
異文化間の「常識の違い」は大きな壁になりますね。
まさにその通りです。ヨーロッパにはヨーロッパの価値観や歴史的背景があり、 “正しさ”だけで進むのは、地図もコンパスも持たずに未知の山へ登るようなものだと痛感しました。
多様な価値観に触れたことで、単にルールを押し通すのではなく、相手の背景を理解し、関係性の中でどう進めるかを考えること、つまり「違いを乗り越える力」が自然と身につきました。あの時の経験で得られた考え方は、今の私の仕事にも深く根づいています。
GEで磨いた「成果主義と適応力」——プロフェッショナルの原点

GEでのキャリアは、野川様にとってどのような意味を持つものでしたか?
まさに今日に至る私のキャリアの軸になっています。GEで得た最大の財産は「環境適応力」だと思います。入社当初は2年間のリーダーシッププログラムに参加し、2年間で3回のローテーションを経験しました。常に新しい環境において短期間で成果を出すことが求められる。この“着任と同時にカウントダウンが始まる”という感覚は、その後のキャリア全体に大きな影響を与えました。
具体的には、どのような力が身についたのでしょうか?
限られた時間でアウトプットを出すためには、自力で立ち上がる行動力が必要です。当時は配属先毎にメールアドレスが変わったこともありPCの設定も自分で行い、分からないことは自分で分かりそうな人を探して解決する。そうした「自分で動く」習慣や、チームと連携して成果を出すプロフェッショナリズムが自然と身につきました。GEらしいハイパフォーマンスカルチャーを形成する基礎だったと思います。
GEでの経験は、後のIBMや3Mでのキャリアにも活きたのでしょうか?
間違いなく活かすことができました。IBMはGEよりもさらにスピードが速い組織でしたが、GEで鍛えられたスタートアップ力は役に立ちました。結果を出すためにどう動くか、という“仕事の作法”は、私の土台になっています。
リーダーシッププログラムの卒業後は、どのようにキャリアを築かれたのですか?
卒業後は、自分で新しい仕事を見つけて次のポジションに就く必要がありました。自ら売り込み、組織に必要とされる存在であることを証明し続ける。非常にシビアな環境でしたが、その分、自分の市場価値を見極める目や力が磨かれました。
IBM本社(米国ヘッドクォーター)での挑戦——見えた「世界基準の人事」と「自分の武器」
IBM本社(米国)で得た学びについて教えてください。
IBM在籍中に、米国本社(ニューヨーク州)での1年間のアサインメントとして、GTS(グローバル・テクノロジー・サービス)の本社部門に赴任しました。
IBMの米国本社では、優秀な人材が集まりレベルの高いプロフェッショナリズムの中にも極めて高度なチームワークの文化が根付いており、一流の成果を出すために互いに切磋し合う環境が刺激的でした。オン・オフがはっきりした働き方も印象的で、効率と生産性を重視した働き方を学ぶことができました。
加えて、グローバルヘッドクオーターの意思決定のプロセスに関わることができ、グローバルで通用する仕事のスタイルを学べたことは私にとって大きな財産です。精鋭メンバーと建設的な議論を重ね、具体的な成果を導き出す経験を通じて、自分のスタンダードは確実に引き上げられました。何物にも代えがたい貴重な時間でした。
IBMでの経験が、今のCHROとしての仕事にどのように影響していますか?
特に大きかったのは、グローバルマネジメントの意思決定の舞台裏に触れられたことです。日本から見ていた時は「なぜこの判断が下されたのか」が不透明に思えたものも、本社(ヘッドクォーター)チームに入ってみて初めて、そのプロセスや背景が見えてきました。だからこそ、単なるトップダウンではなく、現場との橋渡しができる人材の必要性を強く感じました。
人事戦略は経営戦略そのもの——「勝ちにこだわる組織」へ
現在とこれからの三菱マテリアルでの人事戦略について教えてください。
当社の経営戦略には「目指す姿」が明確に掲げられており、それを実現するための人事戦略として2つの柱を設定しました。1つ目は「人材の価値の最大化と勝ちにこだわる組織づくり」、2つ目は「共創と成長を生み出す基盤づくり」となります。
特に注力されている取り組みについて教えてください。
2つ目の「組織づくり」の文脈では、DE&Iとウェルビーイング、そして人材のデータ可視化を進めています。当社の経営層は、依然として「大学卒・日本人・男性」が多数派。多様な視点やアイデアを活かせる組織文化へと転換していくことが急務だと考えています。
三菱マテリアルならではの課題や特徴はありますか?
戦略の実行力を問われることが少なくありません。どんな経営環境においても「勝ち」にこだわり、目標を成し遂げる執念を組織として持つこと。それが今、最も必要とされている姿勢だと考えています。
「勝ちにこだわる」とは、どのような意味でしょうか?
いつの時代も経営環境が厳しい中でも結果を出している企業は存在します。その企業になるかならないか。その分岐点を人と組織で乗り越えられるかどうか。私たち人事は、その「勝ちにこだわる土台」を創る使命があると思っています。
制度は整った、次は「伝え切る力」——企業文化の本質に迫る

冒頭に少し触れましたが、人事制度改革の具体的な取り組みについて教えてください。
これまでの年齢と勤続年数を軸にした職能資格の考え方から、管理職層には担う職務に応じた等級・報酬・評価を行う「職務型人事制度」を、組合員層には役割を軸にした「等級制度」を導入しました。さらに働き方の柔軟性や業務の効率化も重視しています。
人事制度を浸透させる上での課題は?
大きいのはコミュニケーション壁です。制度や施策をイントラなどで「通知」の形で発信しても、それを自分の言葉で伝え、チームに落とし込むというプロセスに改善の余地があると感じています。上司から部下へ「パーソナライズされたコミュニケーション」ができるかどうかが、変革の成否を分けると感じています。
情報を「渡す力」と「受け取る力」——組織を動かす対話の作法
制度導入後、現場との対話のあり方はどう変化しましたか?
なるべく丁寧に、素朴な疑問にもできるだけ寄り添って答えるようにしています。対応すべきタイミングを見極めながら、対話の質を高めていくことが大事だと感じています。
ご自身が広い範囲を管掌するようになって、見えてきた課題とは?
現在は、人事に加えて、法務・コンプライアンス・広報といった部門を横断して所管しています。その中に指名委員会の事務局機能も含まれるのですが、役員の後継者計画とそのための次世代経営人材育成の取り組みと、これまで以上に連携できるようになり、より有機的な取り組みができるようになりました。
今後の組織運営で重視している点は?
「情報を渡す力」と「受け取る力」の両方を育てることです。情報を発信しても動かないのは、相手が自分事として捉えられていないから。だからこそ、日々の対話の中で、“この情報がなぜ必要か”を伝え続ける。その繰り返しが、組織の力を底上げすると信じています。
経営人材をつなぐ——仕組みと覚悟でつくる「次世代」
経営人材育成について、近年はどのような進化がありましたか?
以前から育成施策や後継者計画づくりは存在していましたが、部門ごとにバラバラで連携があまり強くありませんでした。マネジメント層も、「自分の後継者は、自分がよく知る身近な人から選ぶもの」という感覚が強く、育成施策と人材選定が有機的に連携していませんでした。それを現在は、「次世代経営人材のプールから後継者を選ぶ」という共通理解に変わってきました。
中長期を視野に、会社としてどう選抜し、どう準備していくかを可視化して進めていくよう転換しつつあります。ようやく一緒に議論できる土壌が整ってきたと感じています。
一方で、福利厚生や働きがいの観点での取り組みも進めているとか?
はい。「成長支援」と「働きがい向上」の両輪で設計しています。ただ、日本企業あるあるですが、制度を継ぎ足しで増やしてきたため、現場からは「多すぎて何を使えばいいか分からない」という声もあります。今はそれを一度整理し、使いやすく、実感しやすい形に見直したいと考えています。
CHROとしての今後の展望を教えてください。
とにかく一人ひとりが持つ潜在力を引き出し、それが組織の成果に結びつくようにすること。そのために、制度設計だけでなく、カルチャーや対話、評価の在り方も含めて改革を加速させたいと思っています。最終的には、それが勝ちにつながる組織をつくることが使命です。
「人を信じ、人に懸ける」——原動力は、組織への情熱

今、モチベーションの源はなんでしょう?
やはり「組織を強くしたい」という思いです。人で組織は良くも悪くもなる。それを動かすのが人事の仕事です。それは私にとっての、ライフワークでもあります。成果が出るまでに時間がかかるのも人事の難しさであり、面白さ。時間をかけて向き合う価値があると思えるからこそ、頑張れます。
最後に、これからCHROを目指す方へのメッセージをお願いします。
「目の前のことに全力で向き合う」——それがすべてです。私のキャリアは、花王、GE、IBM、3M、そして今に至るまで、すべてがつながっています。GEでの経験がなければIBMでは成果を出せず、IBMでの仕事を通じてスタンダードを上げたことで3MでカントリーHRリーダーの役目を果たすことができました。3Mでは採用・労政・育成すべての領域を束ねる経験を経て、CHROとしての準備ができました。どんな経験も意味があり、すべては積み重ね。振り返れば、無駄な経験は一つもなかったと思います。
人事という仕事は、会社の本質に関わるものです。そして、すぐに成果が見えないからこそ、誠実に丁寧に向き合える人材が必要なのだと思います。誰かの成長を信じ、組織の未来を信じて働ける人が、CHROには向いていると思います。ぜひ、そんな想いをもってチャレンジしてほしいですし、今目の前にある機会を大切にしてほしいです。
ありがとうございました。
Photo by ikuko
Text&Edit by ISSコンサルティング