今回は、ファイナンス分野のトップエグゼクティブとして活躍されている、バクスター株式会社、井手さんに、CFOへのキャリアパスや、外資系企業におけるファイナンスやCFOの仕事について、ご自身の経験を振り返りつつ語っていただきました。 非常に内容の濃いインタビューのため、2回に分けてご報告いたします。
バクスター株式会社の概要
バクスター株式会社は、腎不全、血友病、輸液、麻酔・疼痛管理の領域に特化した世界的なヘルスケアカンパニー、米国バクスター社の日本法人です。米国バクスター社は、1956年、世界で初めて血液透析を製品化し、さらに、1978年には世界で初めて連続腹膜透析の実用化に成功。腎臓病患者の在宅治療を可能にし、透析療法に大きな変化と進歩をもたらしました。世界110ヶ国以上で医療用ヘルスケア事業を展開し、日本では腹膜透析、バイオサイエンス、薬剤投与システムの分野を中心としたビジネスを展開しています。
Vol1.ファイナンススキルの基礎構築?編
Q: どのような経緯でCFOになったのでしょうか?
私の経歴が、100%参考になるものかどうかわかりませんが7割くらいは、状況に身を任せ、3割が努力というかその時々の選択でしょうか。その2つの要素によって成り立っています。 CFOを最初から目指そうと思い、キャリアパスをブロックごとに積み上げ、きちんとした道筋でやってきたわけではないので、ファイナンスのトップを目指そうという目的意識の強い方々にとって、果たしてぴったりくるような内容の話になるかどうかわかりません。 ただ、自分が任されている仕事についての話はいくらでもできますので、できる限りご参考になるようなお話をしたいと思います。
大学卒業からファイナンスの仕事に到達するまで
Q: 大学卒業後、最初のお仕事は?
大学(早稲田大学文学部)を卒業したころの私は、将来ファイナンスの仕事を自分がしているとは、全く想像もしていませんでした。 学生時代はどちらかというと数字には強い方ではなく、落第スレスレで卒業したような出来の悪い生徒だったと思います。それでもどういうわけか気に入ってくださる方がいて、日系の家電メーカーに採用されました。配属されたのは広告・宣伝を扱う部門でしたが、自分のしたい仕事とのギャップを感じて4年足らずで退職。 その後、友人たちと小さな会社を立ち上げました。最初の2年程は順調でしたが次第に経営難となり会社員へ逆戻り。その時、拾ってくれた会社がモトローラでした。その頃のモトローラは、日本ではあまり知られておらず、私自身も何をやっている会社なのか事前に知っていたわけでもなく、たまたま紹介されて入社し、そこでファイナンスの仕事をすることになったのです。
ファイナンスにのめり込んでいった過程
Q: モトローラでの最初の仕事は?
モトローラに入社したのは1988年。最初の担当はインベントリー(在庫)管理の仕事でした。在庫管理というのは、インター・カンパニー(会社間取引)の帳簿づけです。当時はコンピュータがまだ一台もない時代ですから、台帳というのはその言葉通り、B4サイズの大きな紙で厚さ10cmくらいあって、重々しいカバーがついていて、台のように大きいものでした。コンピュータが当たり前の今では見ることもなくなった、本当に手作りの台帳で、しかも、ものすごく過去のものからあって、相当な分量でした。 その年の夏になってやっと、コンピュータの第1号が会社に来ました。今でも覚えていますが、会議室中央に1台コンピュータが置かれ、みんなが集まって「これがコンピュータというものか」と物珍しそうに眺めていたものです。コンピュータを使うと表計算がすごく早くできて、こういうものが欲しかったという感じでした。
Q: 他にはどのような仕事をしたのですか?
モトローラでは、ひとつの仕事に長く携わるということはありませんでした。私の場合、10年の間に10回程、仕事のローテーションがありました。いろいろな経験をさせてくれたモトローラには感謝しています。 ファイナンスの仕事というのは、経理と一言で片づけられてしまいますが、アカウンティング、税務、ファイナンスシステム、ビジネスプランニング、内部統制など様々なサブエリアに分けることができます。私はモトローラにいる10年間で、そのほとんどの分野を経験することができました。
Q: モトローラでの10年間で印象的だった経験は?
モトローラではすごく重要で転機となるような面白い経験をしました。 ひとつは、入社して1年程経った時、アメリカ人の上司が来たことです。その頃の私は、そもそも外資系がどのようなものかという意識をほとんど持っていませんでした。それで、アメリカ人の上司と全然コミュニケーションが取れないことに愕然とするわけです。中・高・大と10年間学校で英語を勉強してきたはずなのに、それが全く役に立たない。会議の中で、英語で言いたいことが言えない、相手に伝わらない。それが悔しくてしょうがなかったのです。今、外資系を目指そうという方は英語ができて当たり前なのでしょうが、私が英話の必要性に気づいたのは29歳。非常に遅かったのです。さらに、ファイナンスにたずさわっているなかで、自分のバックグラウンドのなさにも気づきました。それで、なんとかしようと、英会話の学校とアカウンティングスクールに平日夜間と週末に通い勉強しました。 そういう勉強をすると面白いことに、アカデミックな知識と自分がやっているプラクティカルな仕事との間のギャップが埋まっていくような感じがしました。バラバラだったパズルのピースが少しずつ繋がり始めると、それを一枚の絵として完成させたいと思うようになったのです。 そんなこともあり、モトローラでファイナンスの仕事を長く続けることになったのでしょうね。私が非常に負けず嫌いの性格だったということでしょうか(笑)。
人との出会い、そしてMBA取得
Q: ファイナンスを面白いと感じるようになったのは?
モトローラで出会った人も、素晴らしかったのではないかと思います。自分にないものを別の誰かの中に見いだせる。それはエキサイティングなことです。こういう考え方もある、こんな見方もあるとか、発想がすごく広がりました。 そして、こういうふうになりたいと思う人との出会いも待っていました。
29歳でモトローラに入り40歳までいましたが、その中で自分のキャリアというものをいつ意識したかと言えば、かなり遅かったですね。少なくとも最初の5年くらいはなかったし、アメリカ本社に1年半ほど行っている間も、そういう気持ちはなかったのではないのでしょうか。
もちろん、日常的な出会いや勉強を通して、ファイナンスの奥深さや面白さを感じてはいたし、ファイナンスというものの影響力の大きさ、自分をもっとレベルアップさせたいという気持ちはありましたが……。でも、自分のキャリアについては、いまひとつピンときていませんでした。
それが、米国本社からやってきた財務部門の責任者(コントローラ)に出会い変わりました。最初その人は、すごく”mean”な人という印象でした。典型的な例は、アカウンティング・マネージャーが提出した集計が、縦罫と横罫で4セント違うことを1時間もみっちりと絞りあげるんです。たかだか4セントですよ。しかし、その時、彼が言っていたのは、「金額は問題ではなく、計算の合っていないものを自分の仕事として外に出すこと自体が問題なのだ」ということでした。
彼からは、“concrete work (徹底した仕事)“をするということを一貫して教えられたように思います。
タイミングにもよるのでしょうが、たまたまその当時の私にとって、彼は目から鱗が落ちるような、心に響く人だったのです。それ以来、彼は”mean”な人ではなく、意味のあるmeaningfulな人になりました(笑)。
Q: アメリカ本社転勤とMBA取得について
モトローラは、人材教育、人的開発にお金を惜しまない会社でした。今思うと、ちょうど私が勤めていた頃は、次世代のリーダーを育てるという方向に社内全体が動いている時期でもあったのでしょう。 それでアメリカ本社から日本法人に来たあるVPが、私の仕事を気に入り、アメリカで勉強しないかという話になったのです。アメリカでは、会社に行きながらMBAを取得するというアレンジメントでした。平日は会社で、毎週土曜日が大学院です。土曜日は朝8時から夕方6時まで講義を受けるのですが、クラスメート20人のうち、私以外はみんなアメリカ人。こっちはなんだか日本代表になったような気になり勉強せざるをえなくなったんです。 結局、アメリカでの研修期間中には終了できず、残りのプログラムは日本に進出したアメリカのビジネススクールに転入し、通算3年間かけてMBAを取得しました。3年間毎週土曜日の勉強をやり遂げたことと、そのとき一緒に勉強した人たちとのネットワークは私の自信と財産になりました。
Q: ファイナンスで一番大切な事とは?
ファイナンスという仕事をやっていくうえで一番根幹となるのは、最終的に譲れない判断の軸を持つことです。成長性、収益性、そして流動性(キャッシュ・フロー)のバランスをどうとるのか、その際、何を優先するのか、あるいは、昨今、重要さを増しているインターナル・コントロール(内部統制)の上で、何が黒で何が白なのか、表面的なテクニカルなものではなく、自分の譲れない軸というものを作ることが大切です。それが現場での素早い決断の基となる。ただ、それは経験を通して確立していくしかないものかもしれません。